MK2氏の20分文章書き耐久テスト(エントリー)に挑戦してみた。

リンク先にもありますが、20分でどれだけのテキスト量書けるかということですね。読ませるために書いたわけではないので、内容ともども読みにくいと思う。

以下、量を書けない俺が果敢にも挑戦した雄姿。

実はMK2氏に「ハイパーグラフィアじゃん」と言ったのは僕なのだけれど、かく言う僕もハイパーグラフィアである。もっとも一時期ほどの激しいものではない。表向きには、組版や文字配置にこだわり、振仮名や註釈をやたら付けたがる程度のものに過ぎない。MK2氏は「砂を吐く」と言っているが、僕の場合は「脳ゲロ」というふうに言っている。言葉の嵐が否応なく僕の脳みそに打ちつけて大変な時期があって、それはもう大変な執筆願望というか、書かねえと襤褸雑巾みたいになって死ぬんじゃねえかというような状態だった。現実にも辛い時期でもあった。本来言葉の指揮棒をとるべき行為の筈なのだが、逆に翻弄されていた。現在はそのようなことはない(と思いたい)のだが、若干の強烈なハイパーグラフィアの焼け跡というか残滓というか、そんな現象が起きているのが、いまの状況だ。

僕は「書かずにいられない性質」でありながら、それより強い「読まずにはいられない性質」を持っている。いわゆるハイパーレキシアのようなものだ。僕は書かれている文字がないと、梅干しの容器の蓋の印字でも読みふけってしまう。僕は内なる声——すなわち内語——を読まずにはいられない。思考は言葉で行われ、それは常に渦巻いている。いま僕が、以前ほどではないにせよ書かずにはいられないのは、ハイパーグラフィアであること、ハイパーレキシアであること、そしてそれ以上に、誰しも経験したであろう「神童のような時代」のせいだ。なにひとつとして考えずに文字を綴り、登場人物は歩き出し、伏線もなにも、一抹の不安もなしにものを書き綴れた時代。大抵の人がそうであるように、僕のそれも学生時代だった。さらには、それが不幸にも、あるいは幸運にも強いハイパーグラフィアであった時代と同一であった。あの感覚、あの快感は非常に忘れがたい。あの時代にあった辛い出来事を経験したいわけでは決してないが、あの感覚は筆舌にしがたいほどのものであった。具体的な経験を覚えているわけでもないのに、僕はすっかり取り憑かれているのだ。もう一度あの感覚に戻ってきて欲しい。あわよくば二度と手放さず、僕のものにしたい。どこかでそれは無理だと知っている。しかし、無理だとか不可能だとかで収まるほど、この欲求は冷めてはいないのである。

あとがき

書き忘れましたが君継です。時間を決めて、内容の制限無しに書く、というのは案外すっきりするもんだなあ、というのが最初の感想。習慣にしてもいいかもしれない。こういうの書いたあとで本腰入れて、さて小説書くか……という感じで。風呂入ってるときが一番活性化するんで、その後に書くとかいいかもしれないと思ったけど、それ多分、物書くのに向き合わないですむから脳が活性化するからだよね。上にも書いたけど、書くために唸るのってつらいもんね。そんなわけで、いったん終止符を打ってから書くというのはいいかもしれん。しかし意味不明だなこの文章。